細川永一は1889(明治22)年、兵庫県淡路島の津名郡(現:洲本市)中川原町に生まれました。当時、粉を挽くための水車がたくさんあり、子供のころはそのあたりで遊んでいたそうです。旧制中学卒業後、進路に悩んでいたのですが、「勉強さえしておけば誰にも盗られることはないのに」という姪の一言に背中を押され、名古屋高等工業学校(現 名古屋工業大学)の機械科に入学し、卒業後は先述のとおり島津製作所に入社しました。なお、永一は創業一年後に、納五平氏の妹、はつと結婚します。永一にとって義兄となった五平氏は、硫酸製造装置建設の専門家であり、1926(大正15)年にヲサメ硫酸工業事務所を創業しています。そして硫酸の製造に必要なバナジウム触媒の国産化にも成功しています。さらに硫酸製造に必要な集塵装置は、静電気を使って塗装する装置と同じ原理に基づくことから電気塗装機も開発、塗装工程の自動化を実現しました。このビジネスは現在の(株)ヲサメ工業に受け継がれています。一方、触媒の開発からも大きなビジネスが生まれ、ヲサメ硫酸工業事務所は幾たびかの変遷を経て、現在は(株)日本触媒となっています。
永一の会社もすんなりと発展してきたわけではありません。二度にわたる台風の襲来(室戸台風、ジェーン台風)による浸水、そして1927(昭和2)年には近隣からの出火によって工場や自宅が焼失してしまいました。このとき、出入りしていた近所の方々には家具や寝具を貸していただき、また取引先であった桃谷順天館の方々には焼け跡を整理していただき、大変感謝したと伝わっています。
さらに桃谷順天館のご厚意で隣接地(大阪市港区高尾町2丁目30番地、現 市岡2丁目)を借りることができ、そこに新たな工場を建てることができました。現在の大阪工場(大阪府枚方市)ができるまで、ここが主たる製造場所として使われ続けました。
さて永一は根っからの技術者であり、商売にはほとんど興味がありませんでした。このことがのち、当時武田薬品工業に勤めていた益男を、弟である明彦が経営近代化のために入社を依頼することに繋がります。